メタフィクションの身振り 『少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンドロンドロンド』感想

私はメディアミックス作品に過度な期待をしないようにしている。これは私に限った話ではないと思う。

メディアミックスは基本的にキャラクターが主軸となってゲーム・アニメ・漫画などの各種メディアで多様な物語が紡がれるが、その骨格はあくまでもキャラクターであり、物語は二の次になることが多々ある。勿論、物語として破綻していたりすればそもそもファンが寄り付かないので、大抵ある程度のものになってはいるが、それはあくまでも及第点であり、満足いく出来かというと決してそうとは言い切れない。

 

そんな中、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下『スタァライト』)はメディアミックスにも拘らず、アニメとしても高レベルな完成度を達成した傑作として後世に名を残し続ける作品である。そこで提示される演劇と青春がメタ的に絡み合った二重構造が、本作の面白さを決定づけている。

現在、テレビシリーズの総集編である『少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンドロンドロンド』(以下『ロンドロンドロンド』)が絶賛公開中である。この総集編において、スタァライトメタフィクションは更に徹底されていた。どういうことか?

なお、以下の解釈はアニメ版のみに依拠したものであり、筆者が舞台版やゲーム版に一切触れていないことをお断りする。また、ネタバレは当然のように含むため、まだ映画を観ていない方、ネタバレを嫌われる方は、出来れば映画を観てから読んでいただきたい。

 

アニメ版において、主人公格の2人(愛城華恋と神楽ひかり)に次ぐ重要な役回りを与えられているキャラクターが、大場ななである。

彼女は明るく周りへの配慮がきめ細かい優等生で、舞台演出においても中心的な役割を担う、99期に欠かせないメンバーである。

彼女は、1年生時に第99回聖翔祭で上演した戯曲「スタァライト」の成功を忘れることができず、再演によってその思い出に傷がつくことを恐れ、「オーディション」に勝ち続けることで何度も1年生の「スタァライト」を繰り返す。

「繰り返される青春の思い出」というモチーフは言うまでもなく押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に通じる。(繰り返される思い出が「文化祭・学園祭」であることも共通している。)

余談だが、『スタァライト』の監督を務めた古川知宏は、『ユリ熊嵐』で副監督を務めたこともある、幾原邦彦の弟子筋に当たる人物である。『スタァライト』作中で展開される百合描写や謎のマスコット的立ち位置の動物(本作ではキリン)、「アタシ再生産」といった特徴的な言い回し、何より演劇を素材として扱っている点には、幾原演出の影が顕著に読み取れる。しかし、古川本人は、幾原と同時に庵野秀明からも影響を受けていると述べている。実際、エレベーターが「オーディション」の会場に急激に降りていくメカニック描写、外連味の効いたアクション、場所や名前を教えるテロップの多用など、『新世紀エヴァンゲリオン』に代表されるような庵野秀明GAINAXを思わせる演出が作中には散見される。幾原からは技術面で、庵野からは感性面での影響をそれぞれ受けた、というのが恐らく解釈として正しいのだろう。

このように、『スタァライト』は日本アニメの伝統を継承している面もあるのだ。

 

閑話休題。本筋に戻ろう。

 

ななが本映画で重要な役回りを担うことは、公式ホームページを見ても分かる。

INTRODUCTIONには、これがあたかも大場ななの物語のように、本作がななのループを前提としていることが露骨に明示されている。(そしてそれは強ち間違いでもないことは映画を観た人になら理解できるだろう。)

さらにポスターを見よ。昼あかりの下、作りかけの舞台に少女たちがそれぞれ思い思いに和み、互いを見やったりしている中で、ななの顔だけに舞台の影がかかっている。ここに演出上の意図があることは言を待たない。同じ時間軸をループしている彼女は、舞台の裏側から、その手に大切な台本を抱えつつ、少女たちを見守っているという、作品の根幹的なモチーフが表現されている。

また、主題歌CD「再生讃美曲」(通常盤)のジャケットには、舞台の上で1人台本を抱えてたたずむななの絵が配されている。このことからも、ななが本作のキーキャラクターであることは自明である。

ななは冒頭から狂言回しとして登場し、その後も要所要所で物語展開についての解説のような詩的セリフを発する。

彼女が再演をするのは、すでに完成された(と彼女の思っている)「スタァライト」が壊れてしまうかもしれないと恐るためである。

演劇とは本来的に刹那的な芸術である。同じキャストが同じ台詞を同じストーリーの中で発し動き回るするが、決して同じものにはならない。完全に台詞を暗記しても、完全に同じタイミングとトーンで台詞を発することはできないし、同じ動きを再現することもできない。変化が必然的について回るのが演劇だ。だからこそ、その一瞬一瞬を刻み込む必要がある。よって、技術的かつ能力的にいくら彼女たちが上達していようが、それが付加要素として介入することで彼女たちの「スタァライト」は間違いなく以前とは異なるものとなってしまう。ななはそれを恐れているのである。

これは構造的に青春と同じである。人は青春を懐古するが、それは青春が若さ故の相対速度で瞬時に過ぎ去っていく刹那の連続だからである。ななが守ろうとしているのは、栄光と化した演劇であると同時に、それの裏面として常に思い出と化し続ける青春なのである。

演劇に閉じ込められた青春、青春に閉じ込められた演劇、演劇の再演が青春の再来を意味する時、『ロンドロンドロンド』の上映もまた再演の形を取って現れる。

『ロンドロンドロンド』において、ななが冒頭からループを前提として登場することが、本作の再演的性格を物語っている。アニメは言うまでもなく「複製芸術」(ベンヤミン)の一種であり、そこに一瞬一瞬にしか顕在化することのない限定的なニュアンス(もっと言えばアウラ)は存在しない。よってアニメの放映において不確実性は全く排除されている。

この不確実性を劇そのものの進化として描いたのが「スタァライト」である。華恋とひかりという2つの不確実が介在することにより、「スタァライト」の悲劇はハッピーエンドとして救済される。

「レヴュー」の「オーディション」を勝ち抜いた舞台少女は、「トップスタァ」として望む舞台を享受することが可能となるが、それに対して、負けた舞台少女は舞台に対する喜びや悲しみといった感情・情熱をすべて失ってしまう。ななはみんなを守りたかったと真矢に告白するが、これはループよって自分が「トップスタァ」の座に居続けることで、上述した青春の思い出の堅持だけでなく、自分以外の少女が勝ち抜くことによる他の少女たちの感情喪失を防ぐ意図もあったことを意味する。

また、彼女が毎回のループで優勝できた背景には、彼女自身の素の実力だけでなく、度重なる「オーディション」の経験から他の舞台少女たちの行動パターンや戦闘スタイルを熟知していたことがあるだろう。

以上の2つの理由を解消するためには、運命を真っ直ぐに信じ抜こうとする華恋による「物語の救済」と、事前データのないひかりによる「物理的な勝利」が必要とされたのだ。(次戦で華恋がななに勝てたのは、華恋の実力というよりもななの精神的動揺に起因するように思える。)

さらに重要なのは、ひかりは舞台への情熱を失っている点である。これに対応するように、ななは舞台の失敗・破綻を恐れている。ひかりは舞台に立つことに伴うありとあらゆる快楽や苦悩を根こそぎ奪われているため、舞台を上演することに伴う苦悩に苛まれているななに対する有力な対抗勢力となり得る。好きの反対は無関心、とはよく言ったものだが、この観点から「無関心VS恐怖(嫌悪)」の構造とでも言えるものがそこにはある。舞台に立つ喜びを享受する華恋ではなく、舞台へ何も関心を抱いていないひかりが最初にななに対峙することがここでは決定的に重要となる。私の失ってしまった感情をあなたはこんな形でしか消費できないのか?、という憤りにも似た問いかけが肉体的な戦闘を通して伝達される。そこで自分の感情に改めて対峙するからこそ、ななは後の「レヴュー」で華恋の正の感情の奔流に屈することになるのだ。

私は先に、再演は不確実性を伴うと言ったが、『ロンドロンドロンド』における不確実性とは、言うまでもなくラストの展開である。テレビアニメと同様に、戯曲「スタァライト」は新たに救済の物語として書き変えられ、大団円を迎える。かのように見えて、実はその大団円によって新たな物語が創出されてしまい、その新たな物語の終幕は「舞台少女の死」をもって行われる、という衝撃的な事実が明かされ、今作は幕を閉じる。そして同時に完全新作の続編映画の情報も明かされ(これは以前から公式発表がありはしたが)、本作が単なる総集編ではなく、明確な意図を持った続編への架け橋であることを(それはあたかもロンドン橋のように徐々に、だが劇的に繋がれる橋である)、我々観客は理解する。このラストの展開は、そのまま「スタァライト」のラスト改変とパラレルに関係し合い、一種のメタ構造を形作る。この時、テレビアニメをすでに視聴している我々は、ななが体験したような再演という演劇的な経験を、アニメにおいて感じ取るのだ。

 

改めて、『少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンドロンドロンド』、現在絶賛公開中である。テレビアニメを知っているからこそ体験できる物語的転回を、是非とも味わってもらいたい。