『21世紀のアニメーションがわかる本』書評

どうも、ワンダです。

 

今更言うまでもなく私はアニメオタクである。それも日本アニメという局所的なジャンルのオタクであり、海外のアニメーションにはあまり縁がない。それでも大衆的なディズニー/ピクサーのアニメ映画にはある程度触れている、というのは私がアニメに興味を持ったのが『トイ・ストーリー』を観たことに端を発しているからであり、それまで単なる映画のオタクであった私にアニメ映画の魅力を気づかせてくれ作品こそが『トイ・ストーリー』なのだ。そこから日本のアニメ映画、具体的には宮崎駿高畑勲スタジオジブリ原恵一押井守細田守今敏など世界的にも有名な監督の作品に触れるようになり、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』によってテレビアニメの世界に感化されることになるのだが、まぁそんな私の話はここではどうでもよい。

 

私が今回考えたいのは、アニメーション研究家土居伸彰の著者『21世紀のアニメーションがわかる本』で展開されている、「私」の時代から「私たち」の時代への転換という議論についてである。

本著のコンセプトは、21世紀のアニメシーンとその特徴を概観することである。私のように日本のアニメしか知らない人間には、海外のアニメーション作家や短編アニメなどについての記述が豊富であったのは大変勉強になったし、アニメを論じる上での視野も広がったように思う。

しかし、本著の主要な議論である「私」から「私たち」の時代へという転換については、やや論拠が薄いように感じた。

著者によれば、2000年代のアニメーションは個人の主体性を明確に描く物語、すなわち「私」の物語が主流であり、「私」と「世界」の対立がテーマとして掲げられていた。これは「セカイ系」の作品にあっても例外ではない。2013年に公開されたスタジオジブリの『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』はそのような強力な主体性を描き出した点で世界的なアニメーションの潮流に合流したとされる。

対して、10年代からは「私」という主体性の強度が下がり、閉じた共同体との一体化や自身の夢世界への埋没といった「私たち」の世界観が強調され始める。アニメーション表現の世界でも、3DCGの進歩に伴い、手描きのオリジナリティは薄れ、メカニカルな単一の動きが盛んとなり、抽象度の高いキャラクターが空洞として観客の自我を溶け込ませる。2016年に公開して大ヒットを記録した『君の名は。』はその典型であり、抽象度の高い主人公たちに観客は自己を同一化させ、密度の高い情報量は観客を圧倒し、災害を含む世界がすべて主人公のメロドラマのためのガジェットとなる、何も考えなくてもよい優しい世界がそこにはある。そこでは世界と対立する強力な自己は存在せず、優しい世界は「あなた」に従属する。海外作品である『アナと雪の女王』や『ズートピア』などにおいても、単一の物語よりも複数の要素が絡み合った複雑な構造を提示することで観客の没入感を高めるような演出が取られていると指摘し、「私たち」の世界は国際的なトレンドであるとされる。

なるほど、確かに一理あるように思える。特に『君の名は。』がアニメーションの抽象的な記号性を徹底させることで観客の埋没感を高める作風であるという指摘に私は同意する。これはもはや「物語」ではなく一種の「アトラクション」と言った方が正確だろう。強固な「私」による単一の「物語」が失われ、多様な「私たち」による思考不要の「アトラクション」が現代アニメーションの主流だと考えることは十分可能だ。アニメ一般に限らず、映画鑑賞において「感情移入」を重視する考え方も、この議論の延長線上にあると言えるだろう。

しかし、この議論は大して独自性の高いものとも思えない。個人による「物語」がその根拠を失いつつあるというテーゼは、「物語」ではなく「要素」に萌える「オタク」が増加しているという浩紀が「データベース消費」として2001年の段階で提起している問題とパラレルな相関をなしている。そもそも、近代的な個人の「物語」が崩壊し、多様な価値が並列するようになる中で共同体への回帰や脱社会的な人格が問題となるというのは典型的なポストモダン的議論展開であり、さほど珍しいものではなく、著者の見解はその亜流の域を出ていない。「私」の物語が00年代の主流だったとする議論も、スタジオジブリ、特に高畑勲は『おもひでぽろぽろ』など何十年も前からそのような「私」の物語を作り続けてきているため、『風立ちぬ』や『かぐや姫の物語』だけを例に挙げてあたかも高畑宮崎が00年代の流れは追いついたと結論するのは些か早計ではないだろうか。それを言うならむしろ高畑宮崎に時代が追いついたと言うべきだろう。それに、高畑が上記の「感情移入」の問題にも早くから批判的な態度を取り、そのカウンターとして『ホーホケキョ となりの山田くん』を制作している事実はあまりにも有名だ。加えて、本書の構成は、同内容の反復が複数のアニメーション作品を事例にあちこちで展開されるため、主要な軸でなる「私」から「私たち」への議論が逆にやや不透明であり、またその議論そのものが著者の感性・感覚に依拠していると思われる部分が多く説得力を欠く部分があることは否めない。確かに、近代的な個人の自我が問題とされる作品は少なくなっているものの、それは先ほども言ったように今に始まったことではなく、たとえば私が影響を受けたと冒頭で記した『新世紀エヴァンゲリオン』にしても、先行作品からのオマージュやパロディを積極的に取り入れ、美少女・ロボット・特撮・聖書・精神分析など複数の要素を複雑に構成したために大ヒットを記録した作品である。これは碇シンジ綾波レイといった個人を描いた作品というよりも、入り組んだ要素要素の部分と集合を享受する点で極めてポストモダン的な作品であることから、著者が10年代アニメーションについて記述した要素による没入という内容が当て嵌まっているし、何より人類補完計画など著者の言う「私たち」の世界観を先んじて提示しているものにほかならない。10年代のアニメーションだけを提示して、そこから「私たち」への移行を読み取れるという議論はやや乱暴に思える。その萌芽は、少なくとも日本においては、すでに「セカイ系」の時点で用意されていたと見るべきだろう。実際、肝心の新海誠自身が庵野秀明からの影響を明言しているのだから。

ただ、『新世紀エヴァンゲリオン』と『君の名は。』に決定的な差異があるのなら、それは世界が優しいかどうかの違いであろう。『新世紀エヴァンゲリオン』の世界は優しくない。徹底して碇シンジに対して厳しいその世界観は、時として視聴者に不快感を及ぼすほどであり、それが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の理不尽なまでの不評に繋がっている。対して、先に説明したように『君の名は。』の世界は優しい。主人公はさしたる苦労もなくヒロインと結ばれるし、その過程で村を救うヒーローにもなり、すべては彼のロマンスを支えるパーツとして機能する。この違いは確かに世代論として重要な示唆に富むが、それを「私たち」と言い表すのは不正確に思う。著者は「セカイ系」も「私」の物語の一種であると書いているが、著者の言う「私たち」の物語の端緒は、「セカイ系」の頃からすでに内在していたと考えるのが妥当ではないだろうか。私は日本以外の海外の国々のアニメーションにおいて著者の言う「私」から「私たち」への移行が起きている事実を積極的に否定するつもりはない。それについての議論は理解可能なものであったし、それ以前に私にそれを批判的に論じるだけの知識がないからだ。しかし、日本においてこの図式をそのままに当て嵌めることはやや安直だと感じた。

以上、学術的な訓練を十分に積んだ研究者の著した労作である本著は、現代アニメーション論として包括的かつ分かりやすい記述が心掛けられており、また提示される論点も興味深いものではあるが、同時に議論がやや不透明かつありきたりな側面のあることも否めないように思う。おそらくこれはまだ過渡的な議論であるだろうし、著者の年齢がまだ若いことを考えても、この先さらなる研究成果が期待されることもまた事実である。今後の活躍を強く祈る次第である。