趣向を変えて

どうも、ワンダです。

最近あまりアニメにハマれなくて困ってます。

まぁ色々と観てはいるし、平均しても最低2日に1クールくらいは消化してるんですけど、特に感動しないというか、感激しないというか、回収することが目的になってしまって、作品自体を楽しめてないんですよね。これは作品の質の問題があるだろうし、私が今鬱状態で集中力一般が欠如してることもあると思います。

そういう時、というか今がそうだから、私は漫画を読むようにしています。(実際は評論とか小説とかも読みますけどこのブログの趣旨とは違うので割愛します。)

 なので、今回は趣向を変えて漫画の話をしようかと思います。まぁ好きな漫画は色々あるんですけど、最近読んだものに限定して書いていきます。

以下いつものように常体で。

 

最近読んで一番感動した漫画は松本大洋の『SUNNY』だ。児童養護施設で暮らす子供たちの生活を、苦しさも悲しさも辛さもそして楽しさも、余すことなく描いた傑作である。著者である松本大洋の実体験に基づく物語でもあり、かなり力のこもった作品となっている。

松本大洋の名は勿論以前から知っていたが、その独特の絵柄に苦手意識を持っていて、あまり積極的に読もうとは思えなかったのだ。

しかし、少し前に『竹光侍』を読み、その完成度に圧倒された経験がある。

緻密な時代物としての面白さ、チャンバラアクションとしての面白さ、戦う人間の業を描くドラマとしての面白さ、それを際立たせる松本大洋の画力、本当に素晴らしい作品であった。

それ以来、松本大洋の作品に対する関心が増し、『SUNNY』を手に取るに至ったのだ。

実は私が松本大洋作品に苦手意識を持っていた理由は、絵柄だけではない。その芸術的とさえ言える独特でファンタジックな世界観に私の理解が追いつかなかったのだ。

しかし、『SUNNY』は私のように松本作品の世界観に苦手意識を持つ人にこそ読んでほしいと思った。

今作において、不可思議な事件や超常的な出来事が起こることはない。起こったとしても子供たちの妄想世界(それはしばしば悲哀を伴う)として描かれ、すべてはあくまでも現実の延長線上にある。

今作に通底するのは徹底したリアリズムの感覚である。どうにもならない現実の中で、足掻きもがき苦しみ、それでも生きていくしかない。そんな八方塞がりな状態を子供の視点から徹底的に描いていく。施設で暮らす彼らは、学校でいじめを受けたり、反抗してグレたり、親との関係に苦しんだりする。そこにブレイクスルーは存在しない。自身の境遇を所与のものとして受け入れるしかないのだ。

我々の生活も同じである。安直なハッピーエンドを迎えることはない。喜びがあったと思えばそれ以上の悲しみが襲ってくる。そこにあるのは生きるしかないという無情な現実、他者という名の地獄なのだ。

松本大洋はその現実から目を逸らさない。社会の逸脱者たちを徹底的に見つめる。その視線は冷たくも温かい。しかし直接的に説教臭く描くのではない。彼の独自性であるところの前衛的でシュールな絵柄が、彼の「視点」を婉曲的に奥深く多角的なものにしている。それは我々読者に一面的で単純な受け取り方を許さない。

この「視点」は、彼の処女作である短編集『青い春』にも見られる。こちらは作者がまだ若く力量も熟し切っていなかったため、不良少年たちを題材に物語が直線的に突き刺さり、世界が複雑に絡み合いかつ開かれていくような面白さには欠けるが、その分熱量を感じ取れる。また、大友克洋に影響を受けているように思われる映画的な構図やコマ割りも、すでに随所に散見される。松本作品を考える上で大切な一冊だろう。

私は今回遅ればせながら松本大洋の才能を認識した。己の無知蒙昧加減を恥じ入ると同時に、今気づけてよかったと思う。彼の過去作はこれからできる限り読んでいきたい所存だ。

 

次に紹介するのは雁屋哲原作池上遼一作画の『男大空』だ。

私はこのコンビの作品が好きで、特に『男組』などは現代から見ると多少時代錯誤的な面が目立つが、それを差し引いても骨太の筆力でグイグイ読ませる漫画史に残る傑作だと思っているし、アニメ評論家藤津亮太が、その熱血漢流全次郎と悪漢神竜剛次の魅力的な対立構造が00年代を代表する名作『コードギアス』に通じるとも評したほどの、古典的作品である。

他にも、雁屋は『美味しんぼ』、池上は『サンクチュアリ』など、様々な代表作を持つ大御所作家である。

では、今作『男大空』はどうか。

ハッキリ言って、『男組』には劣る。

人間のあるべき姿を高らかに説く主人公祭俵太の理想論が臭すぎる。競争社会により人々は疲弊している、このようにギスギスした社会を変えるには子供たちの心を変える必要がある、そのために自分たちで理想の学校を造り、人間らしい教育を行うべきである。至極正論だと思うし、少年漫画の啓蒙的側面を際立たせるが、現代の漫画ならばもう少し表現を工夫するところだろう。ストレートすぎて若干閉口した。

『男組』は確かに正義と悪の対立を描いていたが、それは善悪二元論で割り切れない理念と理念の対立であった。理想論を説いて悪を断罪するような直線的な物語ではなかった。ラストで明らかになる神竜剛次の秘密、真の野望は、物語にグッと奥行きを与えるものであった。確かに、ヒトラーを理想の指導者とする鬼堂凱の悪役っぷりは徹底しているし、その心の空洞も物語後半で明かされるのだが、やはり人物としての厚みは神竜に劣る。言ってしまえば、そのような魅力的で深みのある悪役の欠如、絶対悪として悪を比較的単純化して描くこと、それが『男大空』の欠点なのだ。

しかし、『男大空』にも利点はある。

たとえば、女性の描かれ方。『男組』においてほとんど傍に追いやられていた女性たちだが、『男大空』では男に混じって戦闘を繰り広げるなど主体的に行動する自立した女性像が描かれている。さらに、美人を描けば右に出るものはいない天才池上遼一の画力が、凛々しく美しい女性の表出に成功しているのだ。これは、少年漫画における女性像を考える上でも重要なメルクマールなのではないだろうか。

 

最後に紹介するのは、山田芳裕による『度胸星』である。

山田の漫画は『ジャイアント』を現在途中まで読んでいる程度なので詳しいことは語れないが、両者に共通するのは愚直な男の物語である。

今作『度胸星』は、火星を目指す若者たちの物語である。設定としては、こちらは木星を目指す物語であったが、幸村誠の『プラネテス』に近い。私は谷口悟朗監督によるアニメ版『プラネテス』が大好きなのだが、これは別の機会に譲りたい。(先の『コードギアス』への言及でも明らかだろうが、私はそもそも谷口悟朗監督の大ファンである。)

しかし、設定が似ているだけで、主人公の造形はかなり異なっている。

プラネテス』のハチマキが、自己実現のため自己中心的なまでに木星を目指すのに対し、『度胸星』の度胸は己の倫理観に基づき、時には自分の不利益になるとしても、徹底して正攻法で試練を乗り越えようとする。この度胸の時に自分の命を危険に晒しても愚直に己の倫理観に殉じる性格が、今作のテーマの一つであり、面白い特徴だ。

一方で、宇宙飛行士を目指す訓練課程や未知の物体「テセラック」をめぐる攻防も本作の見どころである。

候補生の誰が選抜メンバーに選ばれるのか、という曖昧状態における宙吊りがサスペンスを醸成するし、「テセラック」という謎の存在がこれまたサスペンスを生み出す。そしてリアリティのある宇宙描写がそのサスペンスを支えている。宇宙をめぐる未知の探究もテーマとしてあったようだが、これは打ち切りのため残念ながら中途半端なところで終わっている。『ジャイアント』において主人公はメジャーリーグを目指すわけだが、人には「何か」を求めて止まない探究心がある、というのが山田作品の背景にある確信なのかもしれない。ところで、山田は現在『望郷太郎』というSF漫画を連載しているのだが、そこでは宇宙をめぐるテーマの掘り下げが行われるのだろうか。期待したい。

 

さて、この辺りでとりあえず紹介を終えたいと思います。あまり一貫性のない文章になるかと思っていたのですが、改めて見るとどの作品でも「直線と婉曲」に言及してることに気づきます。この辺もこれから考えていきたい課題ですね。まぁ、これからはちょくちょくアニメ以外にも漫画の感想も投稿すると思うので、これからもお付き合いいただけると幸いです。

 

SUNNY 10点

男大空 7点

度胸星 7点

 

スパイアニメについて

どうも、ワンダです。

 

大河内一楼という脚本家がいる。

 

プラネテス』や『コードギアス』などの作品で著名な脚本家であり、その緻密なストーリー構成には定評がある。

 

彼が近年手がけた中で最も優れていた作品は、橘正紀監督によるオリジナルアニメーション『プリンセス・プリンシパル』であろう。

19世紀末のロンドンで活躍する少女スパイを描いた本作は、可愛らしいキャラクターがシリアスなミッションに挑むギャップと練られた脚本が評価され、新作劇場アニメの公開も控える人気作だ。

スパイを扱ったアニメとしては『ジョーカー・ゲーム』がある。これは大日本帝国のスパイが国内や大陸で秘密作品に従事する姿を描いた作品であり、緻密な時代考証と緊張感のあるミステリ描写、Productin I.Gによる作画と実力派声優陣の織りなす硬派な芝居が魅力的な良作だ。

このように徹底してリアル路線を追求した『ジョーカー・ゲーム』と異なり、『プリンセス・プリンシパル』は美少女が活躍し、また「ケイバーライト」という無重力技術が作品の鍵を握るなどファンタジックな要素が多い。しかしファンタジーの世界に安住することなく、敵国との攻防は手に汗握るし、貧困や虐待といった社会問題を背景とすることで世界観に深みを与えている。つまりは、門戸は広いが奥は深い作品となっているのだ。梶浦由紀の楽曲も作品の奥行きに寄与している。

 

さて、私はつい最近『RELEASE THE SPYCE』というスパイアニメを観たのだが、これがスパイ物としてお粗末で残念だった。

日本にある架空の都市を舞台に正義の秘密結社「ツキカゲ」が悪の秘密組織「モウリョウ」と戦うというなんとも子供じみたストーリーであり、キャラクターも典型的な萌えキャラであまりオリジナリティがない。アクション作画に迫力がないのもスパイ物としては致命的に思えた。後半のシリアス展開も非常にありきたりで、涙よりもむしろ笑いを誘う。

 

ここでスパイ物一般について考えてみる。

 

スパイ映画として有名なのは、『007シリーズ』、『ジェイソン・ボーンシリーズ』、『ミッション:インポッシブルシリーズ』などだろう。

これらの作品に共通するのは、国家規模の陰謀を解明し、事件を解決するプロセスの面白さである。これを一般化すると、我々がスパイ映画に求めるのは、一つには謎解きの面白さ、もう一つが華麗なアクションの面白さ、である。 

そして舞台設定が大事だ。スパイとは基本的に嘘である。実際のスパイは(多分)暗殺もしないし偵察もしない。だからこそ作品世界におけるスパイにはリアリティが必要となる。現実世界に存在する国やシステムを登場させ、尚且つそれを有効に用いることは、リアリティを与えるための初歩的な方法論である。リアリティとは、限界を設定することと同義である。この設定ならここまでは可能だがここからは非現実的ということを決めるのがリアリティなのだ。例えば、『プリプリ』の場合だと19世期末のロンドンを舞台に作劇を展開することでリアリティが生まれる。この時代ならこのような背景が可能でこのような展開があり得ると視聴者が理解できるからだ。『リリスパ』は架空の都市を背景とし、尚且つ様々なオリジナル兵器を用いるため、作品世界のリアリティが見えづらくなっている。

 

よって、『リリスパ』はおそらくスパイを中心としたストーリー展開よりもキャラの可愛さを楽しむアニメなのだろう。

今作を象徴するのは先輩スパイが後輩スパイを養成する師弟システムであるが、これによりキャラ間の関係性が明確になる。具体的には、主人公を中心に、師匠↔︎弟子の上下関係と後輩同士による横の関係が構築される。(最終回では主人公も師匠となって弟子を育成する立場になる。)

この関係性を通して描かれる「百合」が本作の魅力であり、それを楽しみたい人には確かに向いている。

この場合、作品世界が非常に陳腐であることも、完全な虚構を生きる彼女たちを見守りたいという視聴者の欲望に訴えかける装置として積極的に機能する。

つまり物語はおまけであり、本質的には仲の良いキャラを愛でることに意義がある。それが『リリスパ』なのだ。

以上のような意味で、『リリスパ』はスパイ物ではないと私は考える。スパイを題材にした萌えアニメだ。スパイを題材にするだけではスパイアニメにならないことの好例である。

私は、浅はかにも少しはスパイ物としての面白さを今作に期待してしまったが、それは間違いだったのだ。

現代アニメーション業界において、マーケティング戦略の必要性から、美少女を出すなら男オタを、男性キャラを中心とするなら女オタを、主要ターゲット層とするが、男女双方からの人気を得ることを考えると、私は『プリンセス・プリンシパル』のように美少女を中心に据えながらもスパイ物としての面白さをも追求する作品に開かれた未来があると思うのだが、どうだろうか?

 

ジョーカー・ゲーム9点

プリンセス・プリンシパル8点

RELEASE THE SPYCE4点

 

深夜アニメのジェンダー観

どうも、ワンダです。

今回から常体で書いていきたいと思います。

 

今回取り上げるアニメは、山﨑みつえ監督動画工房制作による『月刊少女野崎くん』である。

今作は動画工房最大のヒット作の一つであり、知ってる方も多いと思う。今回は、今作が少女漫画の伝統を深夜アニメの文脈で継承している点を中心に、今作の特徴を説明したいと思う。

 

まず、ヒロイン佐倉千代がひょんなことから少女漫画家である同級生野崎くんのアシスタントになる導入がシンプルで良い。

漫画家とそのアシスタントという軸を中心にすることで、人間関係も非常に見やすいものになっている。

たとえば、主要登場人物の過半数を野崎くんのアシスタントとして採用することで、高校と漫画作業場という二つの空間を設置することが可能となり、キャラクター個々の属性が際立つのだ。

ギャグとしては、主に少女漫画家なのに恋愛経験が皆無の野崎くんが周囲の人物や日常的な出来事をモデルに漫画を描くことから生じるズレやギャップが笑えるし、他にも暴力的なのに実は美声な同級生や演劇部の花形イケメン女子といったラブコメでお馴染みのキャラが織りなすギャグが作品にある種古典的な安定感を与えている。

総じて恋愛よりもギャグに主眼が置かれた作品であることもあり、三角関係など恋愛描写が重くなったり深刻になることはないため、心理的なストレスを感じることなく安心して観られることもポイントが高い。(これは逆に言えばそういった入り組んだ人間関係を求める人には物足りないかもしれないが、それなら別の作品を観れば良いだけの話だ。)

何より、野崎くんを想う佐倉千代の素直で純真な気持ちが、当時新人だった小澤亜李の初々しい演技に支えられて真っ直ぐに伝わってくることが、この作品を安心感のあるラブコメとして成立させているように思う。

ブコメはゴテゴテした装飾を施すよりも、シンプルな設定の上でギャグ要素と恋愛要素を展開させるのが一番楽しいわげだが、今作はその条件に見事に一致しているのだ。

 

前述した通り、今作はヒロインの佐倉千代の魅力が作品を支えている。

これは全キャラクターについて言えることだが、キャラデザが非常にシンプルだ。しかしこれは決して無味乾燥という意味ではなく、無駄が削ぎ落とされているという意味である。無駄のない美しい完成されたデザインなのだ。また、余計な装飾がない分、そのキャラの言動や個性が直接そのキャラの魅力として伝わる。

千代は頭につけた大きなリボンをトレンドマークとしている。これは少女漫画では伝統的なヒロインのモチーフであり、古くは『はいからさんが通る』、最近では『ニセコイ』などがその例として挙げられるが、このモチーフ一つで過不足なく千代がヒロインであることを明示しているデザインは本当に美しい。

近年の深夜アニメにおいて、「おっぱい」や「パンチラ」はもはや様式美のように用いられることが多い。それはそれで意味のあることだとは思うが、そういった深夜アニメの様式美に囚われない今作のキャラクターデザインは高い評価に値するだろう。

 

そういったジェンダー観を踏まえて考えると、漫画家とそのアシスタントという構図は、一見すると男女の従属関係といったお約束的イメージを喚起するかもしれない。しかし今作では、背景やトーンなどで一緒にアシスタントとして働く男性キャラを設置することで、安易な男女従属性からの脱却に成功している。

作業場においての千代はあくまでも他のキャラと同じアシスタントであり、それは労働者として男性と対等な立場を有していることを示しているのだ。

 

最も顕著なのは、アシスタント兼学園の人気者ミッチーこと御子柴の役割である。彼は一見するとイケメン美男子だが、その実オタク趣味を持つナイーブな青年、すなわち心は乙女なのである。

野崎くんはそんな乙女心に満ちたミッチーを、自身の漫画ではヒロインのモデルとして用いている。

これにより、ミッチーは作中では男だが、作中作では女として顕在化する。そのためか、他のキャラは主人公2人を中心にパラレルなカップリングが存在するのに対し、ミッチーだけは作中においてカップリングが存在しないのだ。男女の異性愛を描いているようで(本筋は確かにそうなのだが)、異性愛規範から外れたキャラをも設置している。既存の男女二項対立に囚われない、自由なジェンダー感覚がそこにはある。

元来、少女漫画ではゲイやレズビアンが肯定的に描かれ、百合やBLは王道として存在感を発揮してきた。

つまり少女漫画とは本来的にジェンダーフリーな芸術媒体なのであり、『月刊少女野崎くん』はその系譜にあるのだ。

 

最後に、オーイシマサヨシのOP『君じゃなきゃダメみたい』と佐倉千代(CV小澤亜李)のED『ウラオモテ・フォーチュン』が名曲である。前者は「平成アニソン大賞」において作曲賞を受賞した作品であり、オーイシの天才的な音楽センスに溢れた快作だ。後者は千代の野崎くんを想う気持ちがひしひしとユーモラスに伝わる可愛いらしい楽曲となっている。

 

以上、今作は、深夜アニメ的なギャグテイストを保持しつつ、同時に少女漫画的なジェンダー観を再現している、大変稀有な傑作なのだ。

文句なしに10点。

 

また、本ブログを書くにあたり石岡良治著『現代アニメ「超」講義』を参考にしたことをここに明記する。

 

 

バトンを繋ぐということ 

こんにちは、ワンダです。

 

第一回目のブログで取り上げるアニメは、いしづかあつこ監督マッドハウス制作による『プリンス・オブ・ストライド オルタナティブ』です。

 

なぜこの作品を今回取り上げるかというと、まぁ単純に今日最終話まで観たからです。

これからも、特に例外がない限りは、観たばかりの出来立てホヤホヤの感想を投稿していきたいと思っています。

では、早速本題に入ります。

 

今作は、ストライドというパルクールと駅伝競走を融合させたような架空のスポーツを題材に、高校生たちが「エンド・オブ・サマー(略称:EOS)」なるストライドの大会で優勝するまでを描く物語です。

今作最大の魅力は何と言っても題名にもあるストライド描写にあります。キャラクターのアクロバティックな動きや走りに、スパイクのキュキュッという効果音や声優陣の見事な息遣いが加わることで華麗ながらも熱のこもった、とにかくカッコいい映像表現として成立しています。はっきり言って、このストライドシーンだけでも今作を観る価値はあると思います。陸上描写として非常に良いものに仕上がっています。

ルール自体も、駅伝に障害物競走の要素を加えたようなシンプルなもので、初回から対戦が描かれることもあり、架空のスポーツながらもすぐに理解できるようになっています。

 

次に、男性陣を中心としたキャラクター描写。花澤香菜演じるヒロインを除いて、登場人物はほとんど全てが男性です。

スポーツと男子の友情というテーマで似た作品としては『Free!』を思い浮かべますね。一部キャストも共通してますし、監督が女性である点やEDを男性声優がユニゾンで歌う点なども共通しています。(他にはテニスの王子様とか黒子のバスケとか。)

これらを具体的に比較してみるのも面白いとは思いますが、ここではとりあえずこのくらいにして内容面の説明に入ります。

物語展開自体は非常に王道です。12話構成としては必要十分な要素が満遍なく詰まっており、スポーツアニメのお手本のような脚本と言えます。

昔は名門だったが今では陰りのある高校、大型新入生の入部による部の再活性、好敵手と書いてライバルと読む最高の友人、次々に現れるライバル校との競合、過去の主要部員の部活復帰、兄弟の確執・兄への劣等感、才能とその限界への苦悩、挫折と再起、幼少期の約束と再会、友情努力勝利、などなど、THE王道な要素のオンパレードです。

これらを全体の調和の中で活かし切っているいしづかあつこ監督の手腕は流石と言うしかありません。編集能力の妙ですね。

また、スポーツ物の出来を左右すると言っても過言でない「先輩・後輩関係」と「同級生関係」の描写も、後述する「ハイタッチ」のギミックを利用して巧みなものになっていました。横との絆で上からのバトンを引き継ぐのが、スポーツ物の様式美なのだと私は考えています。(少しジャンルが違うかもしれないがアイカツ!などはその好例。)

この点、ゲーム版にはあるらしい恋愛要素がなかったことも、友情という今作のテーマを引き立たせる上で正解だったと思います。(単純に尺の都合でそれ以上入れ込めないというのもあったかもしれませんが。)

逆に、ストーリーに遊び心がないと言ってよいほどの非常な真っ直ぐさが、若干ありきたりにも思えました。(メディアミックス作品はどうしても「無難」であることを求められる性質上致し方ないことだとは思いますが。)

 

そして、競技の特性上面白いと思ったのが、ハイタッチによってリレーを行うというシステムです。

「手」とは古来より人と人とが繋がるためのツールであり、コミュニケーションの記号なのです。例えば、握手やサムズアップはその象徴と言えるでしょう。そしてハイタッチもその例外ではない。

すなわち、人と人とを繋ぐ象徴であるハイタッチによって、視覚的に想いを繋げるという作品のテーマを体現することに成功しているわけです。(作中で主人公2人が握手するシーンなどもその点で示唆的です。)

また、これは11話において主人公たちが幼少期の約束を思い出す時の媒介としても機能します。ハイタッチという一つの動作を通して、人だけでなく時間を繋げることにも成功しているのです。このエピソードで、主人公たちが幼少期にしていたように下の名前で呼ぶようになったことからも、このことは分かります。

先輩から後輩へ、後輩から先輩へ、仲間から仲間へ、様々な形で人の輪が繋がっていくのです。

このように一つの動作に多様な意義を付与して要所要所で盛り上げる技法は、大変巧みに思いました。

 

最後に、OxTによるOP「STRIDER'S HIGH」が最高に熱くてカッコいい。作品に寄り添いつつ独自の世界観も体現している。アニソンとして圧倒的な完成度です。素晴らしい楽曲を作り続けるOxTの才能には本当に脱帽します。

 

以上、総合的に良く出来た佳作であるとの印象を持ちましたが、個々の要素が若干ありきたりでキレが今一つであることを鑑みて、9点に近い8点とします。

 

自己紹介

こんにちは、ワンダです。

東京の大学で学生やってます。

これからアニメや漫画の感想をちょくちょく書いていこうと思います。

評価は10点満点で行います。

よろしくお願いします。