言葉によって荒野を歩む少女たちの絵姿

どうも、ワンダです。

 

アニメに少しでも親しんでる人ならば、誰もが岡田麿里の名前を聞いたことがあるだろう。

その作品はネット上で常に賛否両論巻き起こすが、作品の質・量・知名度・ヒット率など、現代日本アニメ界を代表する脚本家であることは間違いない。

私個人としては、総じてアンビバレントな意見を持っている。

たとえば、彼女の代表作『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』や『心が叫びたがってるんだ。』が嫌いだったりする。

しかし好きな作品もある。原作ありなら『とらドラ!』や『放浪息子』、オリジナルなら『true tears』や『花咲くいろは』(特に劇場版の『HOME SWEET HOME』これは傑作!)などは面白いと思う。

このように愛憎入り混じった岡田作品の中で、今回語りたいのは、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』である。

理由は先日観たからだ(いつもと同じ)。

先に言っておくと、私は本作を大変好意的に捉えている。個人的に満足のいく、面白い作品だった。それは、岡田麿里の持つある種の「気持ち悪さ」が物語内部で丁寧に昇華され、物語の一部として成立していたからであり、かつ群像劇として面白かったからだ。(私は群像劇というジャンルが大好物なのだ。)

以下、岡田麿里の過去作にも適宜触れつつ、『荒ぶる』の魅力を説明していきたい。

 

岡田麿里は「下ネタ」を好む。一見不必要に思えるような下ネタを作中に入れ込む。(ここでいう下ネタは、必ずしも下品であるとか笑いを誘発するとかいうことを意味しないが、便宜上下ネタと表記する。)

『あの花』の「あなる」、『ここさけ』のラブホテル、などなど、枚挙に暇がない。

この点で、高校の女子文芸部員たちの「性と生」を扱った本作は、必然的に岡田麿里的下ネタが詰め込まれている。

岡田が下ネタを頻繁に用いるのは、彼女の本拠地が青春ドラマであることと無関係ではない。岡田の作品に限らず、青春ドラマは若者の成長譚が基調となるが、彼女はキャラクターが性に触れることを、子供から大人への変化の証もしくは兆し、あるいは青少年に必須の何か、として描いている。

そのような性に対する岡田独特の問題意識が物語として直接的に立ち現れたのが、この『荒ぶる季節の乙女どもよ。』なのだ。

そのため、従来の岡田作品では退屈もしくは不要に思えた下ネタが、今作では作品を司る不可欠の構成要素として存在感を発揮する。セックスを「エスイーバツ」と隠語的に表現するところなどは、岡田の下ネタ感覚の面目躍如といったところだろう。

下ネタは岡田の持ち味であると同時に足枷であると私は考える。だからこそ、その持ち味が構造的に昇華されている事実は、視聴に対するハードルを下げ、視聴者にとっかかりやすさを与える効果がある。

 

繰り返しになるが、本作は高校の文芸部に所属する女子高生5人が、性とは何か、セックスとは何か、恋愛とは何か、男とは、また女とは何か、を考えながら成長する物語である。

女子高生を中心に据えた物語であるが、必ずしも視点が一方向的なわけではない。本作は群像劇である。群像劇とは、登場人物の種々異なる視点が複層的に主張を重ね合わせていく物語である。それは換言すれば、特定のキャラの主観が優越しない、主観と客観の調和と融合が成立した世界である。

主人公5人には、それぞれカップリングの対象となる男性キャラが用意される。(ED映像の冒頭に映る5人がそれである。)

この5人の男性キャラは、物語が展開するにつれてある者は恋人に、ある者はヒールに、ある者は別れの対象に、ある者は良き理解者になっていくのだが、彼らはただ女子5人の魅力を引き立たせるだけの道化ではない。いわば共感できるキャラクターとなっている。

当然だが、男子と女子の性事情は違う。そもそも肉体の構造が違うのだから、肉体的な欲求に根差す性事情が違ってくる。

これは、主人公の一人である和紗が、幼なじみの泉がAVを観ながら手淫を行うシーンを目撃し、さらには「性的に興奮しない」と告げられてショックを受ける描写に顕著に現れている。

泉は性的な欲望に従事する自分に和紗が嫌悪感を示したと思い、それを払拭すべく和紗を性の対象として見做していないと言ったのだが、和紗からすれば性的欲望と恋愛感情は密接に結びついているものであり、性的関心がないと告げられることが自身を恋愛対象として見ていないと告げられることとイコールで繋がってしまったのだ。性を娯楽として消費しやすい立場にあり、従って性的欲求と恋愛感情を分離して考えがちな男子と性が自分の身体的変化と不可避に結びつくことで、性的欲求と恋愛感情を一致させる傾向にある女子との意識の差をここからは感じ取ることができる。

加えて、このディスコミュニケーションの背景には、女子は性欲を抱いていない(少なくとも男子ほどは抱いていない、興味を持っていない)といった男性視点の旧時代の封建的発想がある。女子の性欲を否定的に見る風潮に対し、実際は女子も男子並みかそれ以上に性について関心を持っているわけで、それが本作の主題なのだが、本作の巧妙な点は男子側の視点を導入することで男性視聴者にも理解しやすい物語を提供していることなのだ。純粋に女子側の視点だけを描いていたのでは、男性視聴者からは自分には関係のない・理解できない「キワモノ作品」と見做される可能性があるが、男子側の視点を導入することでその可能性を封殺しているのだ。このことから私は、男女双方の視点から性について考えようとする岡田の意思を感じる。

他にも、百々子が予備校で出会った悟に付き纏われるシーンだが、これも男女のギャップを表現している。庇護者としての自身をアピールしようとする男子と単なる被保護者でいることを拒否する女子との意識の差が顕在化するわけだが、これも男子が女子に対して抱く時代錯誤的発想が背景にある。

だからこそ、り香に対して「かわいい」を、誤字を重ねながらも、書き連ねて想いを率直に伝えた駿の真摯な態度が逆説的に際立つ。

巧みなキャラクター造形である。

しかし本作で描かれるのは男女の異性愛関係だけではない。

百々子は男子に対して潔癖であり、むしろ女子の方を可愛くて綺麗だと考える。これを恋愛と呼べるのかは議論が分かれそうだが、世界が終わるとしても女子とのセックスを選ぶと言い切る彼女は、男子よりも女子に好意を抱いてることに間違いない。性欲や愛情は、異性にだけ向けられるものではないのだ。美しい菅原氏に惹かれる百々子の姿にもまた、ステレオタイプを拒否する多様性を見てとることができる。

このような多様な視点の配置によってこそ、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は群像劇として成立しているのだ。

 

とらドラ!』のテーマは、「この世界の誰一人、見たことのないもの」を見つけること、であった。人はそれを「恋」や「愛」といった言葉で表現するのかもしれないが、しかし、そのような誰もが用いる、ある種陳腐な借り物の言葉で表現できないものを、登場人物たちは見出そうとする。

『荒ぶる季節の乙女どもよ。』のテーマも似ている。文芸部員である彼らは、言葉に敏感である。自分と相手とその関係を期待する言葉を彼らは探しているのだ。

そも、文学とは何故に生まれたのか。

人の感情を表す言葉は極めて多様である。私たちが日々用いる日本語に限っても、楽しい、嬉しい、悲しい、寂しい、辛い、痛い、苦しい、など様々な語彙があるが、果たしてこれらの言葉が真に我々の感情を表現できると、していると言えるのだろうか?

個別性と多様性の中では、辞書的な語彙からの逸脱が必然的に起こる。その逸脱を考え、捉えることが文学の大切な役割の一つではないだろうか。語り得ないものを語るものが文学なのだ。

彼女たちは小説を通して自分たちの言葉を探す。それは画一的で辞書的な言葉ではなく、彼女たちの実際に寄り添い支える言葉だ。

物語終盤、自分たちの純潔を白紙に喩える彼女たちは、それが汚れていくのではなく、様々な色に染め上げられていくとイメージし、思いの丈をまさに荒ぶって書き上げていく。思春期という荒ぶる季節を生きる彼女たちは、その荒波に時に翻弄されながらも、純潔を失うことを恐れない。その喪失は成長に不可欠であり、成長の過程で新たな言葉を彼女たちは紡いでいく。自分たちの言葉で白紙を埋めていくのだ。言葉とは不確実なものである。どれだけ言葉を尽くしても、その意図が伝わる保証など存在しない。(この点に関しては、私は岡田麿里がややオプティミストであると感じるが、それが今作では基本的に良い方向に作用していたように思し、また控えめであったとも思う。)

しかし言わないと始まらないこともまた事実なのだ。性行為は双方の合意に基づくものだしまたそうあるべきだが、その合意はまず言葉によってなされるものである。彼女たちは、これからも不確実な言葉の壁にぶつかり続けるだろう。しかし、敢えて私は、彼女たちの進路は明るいと思いたいのだ。それは、今作を最後まで観た人になら、分かってもらえると信じている。

 

荒ぶる季節の乙女どもよ。 9点

 

補足

これだけ褒めておいて10点でない理由は、1.キャラクター造形が巧みとはいえやや画一的な面も目立つこと、2.ラストがやや駆け足であったこと、などが主な理由である。(これらは岡田作品全般に共通する欠点でもあるのだが。)