2020年夏アニメ新盤レビュー

どうも、ワンダです(マジで誰だよ)。

 

夏アニメの暫定的なレビューを書いていこうと思います。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

数年前のコミックマーケット、私は通販で買えるにも拘らず、わざわざ抱き枕カバーを買いに東京まで出かけた。お目当ては雪ノ下雪乃。当時はゾッコンであった。何度"彼女"を抱きながら致したことか。若き日の記憶である。しかし、私も歳を取ったのか、雪ノ下が全く刺さらない。これはどういうことか。今の私は、由比ヶ浜〜シコシコシコ、である。

とまぁ、そのくらい個人的に好きな作品の最終章ということもあり、必然的に期待は高まった。結果、第1話から満足のいく出来となっている。1話はその日のうちに5周した(その時間で別のアニメを観るべき、知ってる)。原作はすでに読んでいるので、展開などは知っているが、密度の高い作画と細かな演出によって登場人物の機微を表現する手法は健在であり、制作陣の気合いの入り方が伝わってくる。詳しい言及は終盤レビューの方に譲りたいが、本作の核心的なポイントは、結局コミュニケーションの不可能性に尽きると思う。人は他者との意思疎通に言葉を必要とするが、その言葉には一体どれほど信用を置けるのか、言葉を重ねれば本心は伝わるのか、そもそも一貫した本心など人間にはあるのか。思春期の若者が不可避的に直面する実存的な悩みに、ラノベ的な誇張やラブコメ的な装飾があるとはいえ、これほど向き合っている作品は近年稀である(近年とか言ってるけど原作1巻の出版から数えて9年経ってるんだよな、ヒエエ)。大学生になってまでラノベ原作ラブコメアニメを観ることに抵抗感を覚える人もいるだろう。だがしかし、本作を通して再び思春期の心境を思い出してみるのも一興ではないだろうか。9点

 

GREAT PRETENDER 

よくあるクライム物だなという感じ。物語的には映画やドラマで既視感のある展開で特に新鮮なことをやってるとも思えず、ありきたりな印象を拭えなかった。古沢良太の作風にアニメは割と合ってるとは思うのだが......6点

 

日本沈没2020

映像は流石の湯浅クオリティで素晴らしいものだった。特に先輩がダッシュするシーンとカイトが飛ぶシーンは感動もの、すなわちバケモン。人体破壊などのグロテスクな描写も、世間的には賛否両論あるようだが、個人的には好みだった。同じネトフリとタッグを組んだ、デビルマンcrybabyの時も感じたが、湯浅はエログロナンセンスが案外上手い。近年ありがちな(というよりネトフリにありがちな)ダイバーシティを意識した人物造形はさほど嫌味にならず物語に馴染んでいたように思う。ただ、ナショナリズムについての考察はややありきたりに思えた。総じてなんだかんだと優等生的な印象であり、もう少し内容的に暴れてみてもよかったのではないかと思う。8点

 

放課後ていぼう日誌

動画工房の職人技が光る日常系アニメで安定感がありのんびりと観られる。その一方で、釣りに対する描写が細かく、なかなか勉強になる部分も多い。釣りをしたくなる。あと7話がバケモン、発狂した。7点

 

天晴爛漫!

時代背景・舞台設定ともに青春物で名を馳せるPA作品としてはかなり珍しい部類に属するように思う。で、肝心の内容なのだが、正直退屈である。まず画が面白くない。動きも面白くないしキャラデザもイマイチだし、とにかくパッとしない。画で魅せる手法をメインに据えているPAとしてもそうだが、カーチェイス物としてこれは致命的ではないか。物語的にも、先ほど珍しい部類に属するとは言ったものの、それはPAとして珍しいという意味に過ぎず、平凡以下の内容であることに違いはない。あと、頭と腹と心臓で考えるってやつ、金八先生で見たなってなった。3点

 

A.I.C.O. Incarnation

ネトフリで全話回収済み。SFとして特段優れているわけでも新鮮というわけでもなかったが、後半のどんでん返しからはそれなりに楽しめたように思う。ただ肉塊が動きまくるとかいう安直な絵面はもう少しどうにかならなかったのかしら。映像的にやや冗長。5点

 

ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld

1話(厳密には13話)から夫婦共演によるリーファの触手プレイが見れたのが楽しかった。子曰く、触手プレイしか勝たん。1点

 

デカダンス

主人公の本体がまんま仮面ライダーエグゼイドみたいな格好してて笑った。深夜アニメ的な動きとカートゥーンショー的な動きのミキシングは映像的に面白いが(線の少ない絵でバリバリ動かそうという面も含めどこかtriggerを思わせる)、まだ前半戦ということもあり、内容面ではあまりハマれない。後半戦で盛り上がりそうな雰囲気はあるので期待しておく。5点

 

Lapis Re:LiGHTs

キャラの顔が良い。OP観ながらずっと叫んでる。特にOPサビのティアラが振り向くシーンがマジで好ましい、700,000,000,000,000,000,000,000回観てPCを潰してしまった。さらに特筆すべきは5話のチャイナ服ティアラ、可愛すぎてンフンフwってリアルに声出た。10点

 

魔王学院の不適合者~史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う~

ギャグアニメである。監督的にも防振りと同系統のノンビリ観てヘラヘラ笑って何も残らないアニメなのかなという感じ。嫌いではないです。3点

 

彼女お借りします

秘儀1話切り。虚無。0点

 

富豪刑事 Balance:UNLIMITED

フジテレビ系列のノイタミナだからか、踊る大捜査線のパロディが散見されて懐かしくなった。内容はコメディ。ミステリ要素ほぼない。と思ったらなんかシリアスになりそうな雰囲気もある。よくわからん。オタクアニメっぽくないという意味で確かにノイタミナらしさはあるのだが、同時にノイタミナにしてはゆるい作品だなとも思う。5点

 

Re:ゼロから始める異世界生活2

1期観てなかったので急ピッチで回収して追いついた。その流れるような視聴の中で強く考えていたのは、フェリスが男の娘だという厳粛なる事実である。堀江由衣ぱないの!

そして2話(通算27話)がバケモンですね。皆さんペトラちゃんのメイド服姿見ましたか?ぼかあ発狂しました。テレビの前で床に頭擦り付けてありがとうございますありがとうございますと叫び倒しました。同時に感動で涙がツーと僕の目から流れ落ちてきた。ああ、これがアニメーションなんだなって。アニメーションだからこそ可能な、美しい表現なんだなって、そう思いました。あと6話(通算31話)もバケモン。「おかえりなさいませ」で2度目の発狂。抱きしめてるスバルにお前そこ代われって言って蹴り入れてやりたい。高野麻里佳ぱないの!!

坂本真綾ボクっ娘もいいですね。あの女性寄りの中性的な声質、すごく聴いてて心地が良い。天使がいるなら坂本真綾みたいな声してるんだろうなって思う。坂本真綾ぱないの!!!

内容面では4話(通算29話)がバケモン。「死に戻り」というゲーム的コンティニュー要素でスバルは何度も出来事を「やり直す」わけだが、多分彼が本当の意味で「やり直し」を達成できたのは今回が最初なのではないか。そして同時に、そのような「やり直し」は二度と発動しないような気もする。なかなかに感動的ではないか。

あれ、もしかしてめちゃくちゃ面白いアニメなのでは...?

6点

 

うまよん

ウマ娘に対しては特に感情ないし、キャラも多すぎて全然把握しきれていないが、ショートアニメとしてオチがちゃんとあって毎回面白い。視聴容易アニメ。6点

 

ジビエート

ファーストガンダムで育った世代(嘘)なので池田秀一のイケボに毎回濡れてる(嘘)。1点

 

ウルトラマンZ

ウルトラマンは昭和の初期作品しか知らない。だから最近の傾向とか一切分からない。ちょっと気まぐれで新鮮な視聴。昔のウルトラマンも結構出てくれるみたいなのでそれなりに楽しい。やはり着ぐるみバトルは琴線に触れるものがある。基本1話完結なので観やすいし、本筋もちゃんとありそうなのでポイント高い。とりあえずガキの頃に観てたアバレンジャーで特撮にハマった人間だから遠藤正明のOPでテンション上がるし、ガンダムSEED好きな人間だから玉置成実のEDでグッとくる。7点

2020年春アニメ終盤レビュー

どうも、ワンダです(誰だよ)。

 

遅くなりましたが2020年春アニメについてのレビューを書いていこうと思います。

 

波よ聞いてくれ

春アニメで一番好きだった。ラジオパーソナリティを主人公として会話劇の面白さが存分に発揮された快作である。あのセリフ量を驚異的な滑舌で喋り倒す主人公ミナレ役の杉山里穂には敬意を表するばかりだ。なんで飯屋でバイト?なんで舞台が北海道?そもそもなんでラジオやってんだ?といった作中の些細な疑問点が最終回で一箇所に収斂する様は圧巻だった。人は言語によって思考し、言語によって繋がり、言語によって生きる、その体現がここにある。10点

 

BNA

諸星すみれ主演trigger制作という信頼感の半端ない布陣ではあったが、物語展開は予定調和であり、内容面では今ひとつ物足りないように思った。それでも最終回に向けての盛り上がりは安心して楽しめ、エンタメとしてはまずまずの面白さに仕上がっていたと思う。みちるは獣人化してしまったこと以外は極めて普通の女の子だが、天才諸星すみれの演技力がその等身大女子の造形を完璧に捉えていて見事だった。また、本来難しいとされる動物作画をあそこまで動かせるのは流石のtriggerクオリティである。8点

 

イエスタデイをうたって

心臓をえぐられるような、徹底して繊細に若者の生活と恋愛を捉えようとする姿勢には感服した。もはや達人芸の領域に至っている谷口淳一郎のキャラクターデザインを中心に、動画工房の安定した描写力が細かなシーンの一つ一つに説得力を与えている。こういうアニメが時たま生まれるところに、深夜アニメの可能性があると思う。8点

 

かくしごと

高橋李依演じるひめが可愛いことに尽きる。懐古感を漂わせるEDを含め、ある程度年齢の高い層にも届くように作られていると感じた。子供たちはすでに思春期真っ盛りで反抗的、妻との関係も倦怠期に入り、夜中に寂しく帰ってきたおじさんサラリーマンが、ふとテレビをつけたら有り得たかもしれない娘との和やかな生活が画面上に描き出されているのを観て、なんだかホッコリする。そんなアニメだろう。7点

 

プリンセスコネクト!Re:Dive

やってることは監督的にもこのすばなのだが、このすばがギャグに終始しているのに比べて、こちらは心なしかストーリーを意識しているように思った。そのため、美食殿のメイン4人の関係性を主軸にしているのは理解できるのだが、謎めかしていた敵の正体は最後まで不明のままだし、若干消化不良でしっくりこないところも少なくなかった。良くも悪くもキャラクターアニメであり、ゲームをプレイしている人には刺さるものもあるのかもしれないが、そのキャラクターも大量に登場するためゲームに触れていない自分としては性格などを追うのに苦労した。続編があるようなのでそちらも観た上で総合的な判断を下したい。6点

 

攻殻機動隊SAC_2045

神山健治攻殻機動隊を撮るのが上手いと改めて思った。政治的なニュアンスを物語に綺麗に落とし込んだ上でドラマチックに展開させていく手腕は流石の一言。当初より懸念されていた3DCGによる映像も、タチコマなどすでにCGで描かれていたキャラは勿論、素子をはじめとさる公安9課の面々の描写も違和感がなく、むしろ3DCGとの相性が良いとさえ思えたのは本作がSF作品としてハードな世界観を構築していることの証左と言えよう。続編を期待させる最終回の引きも良かった。9点

 

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった

悪役令嬢、すなわちメインヒロインではない存在を主人公とすることで、男女問わずどのキャラクターとも対等な交友関係を結べるようにした設定は巧みだと思った(結果メインヒロインをも攻略するのがまた面白い)。登場人物は皆性格が良い上に次々と攻略されていく様はストレスゼロで観ていて清々しさすら覚える。個人的にangelaが好きなので、OPにおいてangelaの新たな側面を堪能できたことも嬉しかった。8点

 

本好きの下剋上〜司書になるためには手段を選んでいられません〜第2部

第1部から続き、すごく王道で面白い。スタッフキャストともにキャリアのある人が多く安心感がある。商人として磨いた交渉力と人脈、そして前世の知識を神殿でも駆使して政治的な立ち回りを演じるのはまさに下克上という感じで楽しい。諸星すみれのOP「つむじかぜ」が素晴らしいのは言うまでもないだろう。第3部にも期待したい。9点

『21世紀のアニメーションがわかる本』書評

どうも、ワンダです。

 

今更言うまでもなく私はアニメオタクである。それも日本アニメという局所的なジャンルのオタクであり、海外のアニメーションにはあまり縁がない。それでも大衆的なディズニー/ピクサーのアニメ映画にはある程度触れている、というのは私がアニメに興味を持ったのが『トイ・ストーリー』を観たことに端を発しているからであり、それまで単なる映画のオタクであった私にアニメ映画の魅力を気づかせてくれ作品こそが『トイ・ストーリー』なのだ。そこから日本のアニメ映画、具体的には宮崎駿高畑勲スタジオジブリ原恵一押井守細田守今敏など世界的にも有名な監督の作品に触れるようになり、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』によってテレビアニメの世界に感化されることになるのだが、まぁそんな私の話はここではどうでもよい。

 

私が今回考えたいのは、アニメーション研究家土居伸彰の著者『21世紀のアニメーションがわかる本』で展開されている、「私」の時代から「私たち」の時代への転換という議論についてである。

本著のコンセプトは、21世紀のアニメシーンとその特徴を概観することである。私のように日本のアニメしか知らない人間には、海外のアニメーション作家や短編アニメなどについての記述が豊富であったのは大変勉強になったし、アニメを論じる上での視野も広がったように思う。

しかし、本著の主要な議論である「私」から「私たち」の時代へという転換については、やや論拠が薄いように感じた。

著者によれば、2000年代のアニメーションは個人の主体性を明確に描く物語、すなわち「私」の物語が主流であり、「私」と「世界」の対立がテーマとして掲げられていた。これは「セカイ系」の作品にあっても例外ではない。2013年に公開されたスタジオジブリの『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』はそのような強力な主体性を描き出した点で世界的なアニメーションの潮流に合流したとされる。

対して、10年代からは「私」という主体性の強度が下がり、閉じた共同体との一体化や自身の夢世界への埋没といった「私たち」の世界観が強調され始める。アニメーション表現の世界でも、3DCGの進歩に伴い、手描きのオリジナリティは薄れ、メカニカルな単一の動きが盛んとなり、抽象度の高いキャラクターが空洞として観客の自我を溶け込ませる。2016年に公開して大ヒットを記録した『君の名は。』はその典型であり、抽象度の高い主人公たちに観客は自己を同一化させ、密度の高い情報量は観客を圧倒し、災害を含む世界がすべて主人公のメロドラマのためのガジェットとなる、何も考えなくてもよい優しい世界がそこにはある。そこでは世界と対立する強力な自己は存在せず、優しい世界は「あなた」に従属する。海外作品である『アナと雪の女王』や『ズートピア』などにおいても、単一の物語よりも複数の要素が絡み合った複雑な構造を提示することで観客の没入感を高めるような演出が取られていると指摘し、「私たち」の世界は国際的なトレンドであるとされる。

なるほど、確かに一理あるように思える。特に『君の名は。』がアニメーションの抽象的な記号性を徹底させることで観客の埋没感を高める作風であるという指摘に私は同意する。これはもはや「物語」ではなく一種の「アトラクション」と言った方が正確だろう。強固な「私」による単一の「物語」が失われ、多様な「私たち」による思考不要の「アトラクション」が現代アニメーションの主流だと考えることは十分可能だ。アニメ一般に限らず、映画鑑賞において「感情移入」を重視する考え方も、この議論の延長線上にあると言えるだろう。

しかし、この議論は大して独自性の高いものとも思えない。個人による「物語」がその根拠を失いつつあるというテーゼは、「物語」ではなく「要素」に萌える「オタク」が増加しているという浩紀が「データベース消費」として2001年の段階で提起している問題とパラレルな相関をなしている。そもそも、近代的な個人の「物語」が崩壊し、多様な価値が並列するようになる中で共同体への回帰や脱社会的な人格が問題となるというのは典型的なポストモダン的議論展開であり、さほど珍しいものではなく、著者の見解はその亜流の域を出ていない。「私」の物語が00年代の主流だったとする議論も、スタジオジブリ、特に高畑勲は『おもひでぽろぽろ』など何十年も前からそのような「私」の物語を作り続けてきているため、『風立ちぬ』や『かぐや姫の物語』だけを例に挙げてあたかも高畑宮崎が00年代の流れは追いついたと結論するのは些か早計ではないだろうか。それを言うならむしろ高畑宮崎に時代が追いついたと言うべきだろう。それに、高畑が上記の「感情移入」の問題にも早くから批判的な態度を取り、そのカウンターとして『ホーホケキョ となりの山田くん』を制作している事実はあまりにも有名だ。加えて、本書の構成は、同内容の反復が複数のアニメーション作品を事例にあちこちで展開されるため、主要な軸でなる「私」から「私たち」への議論が逆にやや不透明であり、またその議論そのものが著者の感性・感覚に依拠していると思われる部分が多く説得力を欠く部分があることは否めない。確かに、近代的な個人の自我が問題とされる作品は少なくなっているものの、それは先ほども言ったように今に始まったことではなく、たとえば私が影響を受けたと冒頭で記した『新世紀エヴァンゲリオン』にしても、先行作品からのオマージュやパロディを積極的に取り入れ、美少女・ロボット・特撮・聖書・精神分析など複数の要素を複雑に構成したために大ヒットを記録した作品である。これは碇シンジ綾波レイといった個人を描いた作品というよりも、入り組んだ要素要素の部分と集合を享受する点で極めてポストモダン的な作品であることから、著者が10年代アニメーションについて記述した要素による没入という内容が当て嵌まっているし、何より人類補完計画など著者の言う「私たち」の世界観を先んじて提示しているものにほかならない。10年代のアニメーションだけを提示して、そこから「私たち」への移行を読み取れるという議論はやや乱暴に思える。その萌芽は、少なくとも日本においては、すでに「セカイ系」の時点で用意されていたと見るべきだろう。実際、肝心の新海誠自身が庵野秀明からの影響を明言しているのだから。

ただ、『新世紀エヴァンゲリオン』と『君の名は。』に決定的な差異があるのなら、それは世界が優しいかどうかの違いであろう。『新世紀エヴァンゲリオン』の世界は優しくない。徹底して碇シンジに対して厳しいその世界観は、時として視聴者に不快感を及ぼすほどであり、それが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の理不尽なまでの不評に繋がっている。対して、先に説明したように『君の名は。』の世界は優しい。主人公はさしたる苦労もなくヒロインと結ばれるし、その過程で村を救うヒーローにもなり、すべては彼のロマンスを支えるパーツとして機能する。この違いは確かに世代論として重要な示唆に富むが、それを「私たち」と言い表すのは不正確に思う。著者は「セカイ系」も「私」の物語の一種であると書いているが、著者の言う「私たち」の物語の端緒は、「セカイ系」の頃からすでに内在していたと考えるのが妥当ではないだろうか。私は日本以外の海外の国々のアニメーションにおいて著者の言う「私」から「私たち」への移行が起きている事実を積極的に否定するつもりはない。それについての議論は理解可能なものであったし、それ以前に私にそれを批判的に論じるだけの知識がないからだ。しかし、日本においてこの図式をそのままに当て嵌めることはやや安直だと感じた。

以上、学術的な訓練を十分に積んだ研究者の著した労作である本著は、現代アニメーション論として包括的かつ分かりやすい記述が心掛けられており、また提示される論点も興味深いものではあるが、同時に議論がやや不透明かつありきたりな側面のあることも否めないように思う。おそらくこれはまだ過渡的な議論であるだろうし、著者の年齢がまだ若いことを考えても、この先さらなる研究成果が期待されることもまた事実である。今後の活躍を強く祈る次第である。

 

 

 

メタフィクションの身振り 『少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンドロンドロンド』感想

私はメディアミックス作品に過度な期待をしないようにしている。これは私に限った話ではないと思う。

メディアミックスは基本的にキャラクターが主軸となってゲーム・アニメ・漫画などの各種メディアで多様な物語が紡がれるが、その骨格はあくまでもキャラクターであり、物語は二の次になることが多々ある。勿論、物語として破綻していたりすればそもそもファンが寄り付かないので、大抵ある程度のものになってはいるが、それはあくまでも及第点であり、満足いく出来かというと決してそうとは言い切れない。

 

そんな中、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下『スタァライト』)はメディアミックスにも拘らず、アニメとしても高レベルな完成度を達成した傑作として後世に名を残し続ける作品である。そこで提示される演劇と青春がメタ的に絡み合った二重構造が、本作の面白さを決定づけている。

現在、テレビシリーズの総集編である『少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンドロンドロンド』(以下『ロンドロンドロンド』)が絶賛公開中である。この総集編において、スタァライトメタフィクションは更に徹底されていた。どういうことか?

なお、以下の解釈はアニメ版のみに依拠したものであり、筆者が舞台版やゲーム版に一切触れていないことをお断りする。また、ネタバレは当然のように含むため、まだ映画を観ていない方、ネタバレを嫌われる方は、出来れば映画を観てから読んでいただきたい。

 

アニメ版において、主人公格の2人(愛城華恋と神楽ひかり)に次ぐ重要な役回りを与えられているキャラクターが、大場ななである。

彼女は明るく周りへの配慮がきめ細かい優等生で、舞台演出においても中心的な役割を担う、99期に欠かせないメンバーである。

彼女は、1年生時に第99回聖翔祭で上演した戯曲「スタァライト」の成功を忘れることができず、再演によってその思い出に傷がつくことを恐れ、「オーディション」に勝ち続けることで何度も1年生の「スタァライト」を繰り返す。

「繰り返される青春の思い出」というモチーフは言うまでもなく押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に通じる。(繰り返される思い出が「文化祭・学園祭」であることも共通している。)

余談だが、『スタァライト』の監督を務めた古川知宏は、『ユリ熊嵐』で副監督を務めたこともある、幾原邦彦の弟子筋に当たる人物である。『スタァライト』作中で展開される百合描写や謎のマスコット的立ち位置の動物(本作ではキリン)、「アタシ再生産」といった特徴的な言い回し、何より演劇を素材として扱っている点には、幾原演出の影が顕著に読み取れる。しかし、古川本人は、幾原と同時に庵野秀明からも影響を受けていると述べている。実際、エレベーターが「オーディション」の会場に急激に降りていくメカニック描写、外連味の効いたアクション、場所や名前を教えるテロップの多用など、『新世紀エヴァンゲリオン』に代表されるような庵野秀明GAINAXを思わせる演出が作中には散見される。幾原からは技術面で、庵野からは感性面での影響をそれぞれ受けた、というのが恐らく解釈として正しいのだろう。

このように、『スタァライト』は日本アニメの伝統を継承している面もあるのだ。

 

閑話休題。本筋に戻ろう。

 

ななが本映画で重要な役回りを担うことは、公式ホームページを見ても分かる。

INTRODUCTIONには、これがあたかも大場ななの物語のように、本作がななのループを前提としていることが露骨に明示されている。(そしてそれは強ち間違いでもないことは映画を観た人になら理解できるだろう。)

さらにポスターを見よ。昼あかりの下、作りかけの舞台に少女たちがそれぞれ思い思いに和み、互いを見やったりしている中で、ななの顔だけに舞台の影がかかっている。ここに演出上の意図があることは言を待たない。同じ時間軸をループしている彼女は、舞台の裏側から、その手に大切な台本を抱えつつ、少女たちを見守っているという、作品の根幹的なモチーフが表現されている。

また、主題歌CD「再生讃美曲」(通常盤)のジャケットには、舞台の上で1人台本を抱えてたたずむななの絵が配されている。このことからも、ななが本作のキーキャラクターであることは自明である。

ななは冒頭から狂言回しとして登場し、その後も要所要所で物語展開についての解説のような詩的セリフを発する。

彼女が再演をするのは、すでに完成された(と彼女の思っている)「スタァライト」が壊れてしまうかもしれないと恐るためである。

演劇とは本来的に刹那的な芸術である。同じキャストが同じ台詞を同じストーリーの中で発し動き回るするが、決して同じものにはならない。完全に台詞を暗記しても、完全に同じタイミングとトーンで台詞を発することはできないし、同じ動きを再現することもできない。変化が必然的について回るのが演劇だ。だからこそ、その一瞬一瞬を刻み込む必要がある。よって、技術的かつ能力的にいくら彼女たちが上達していようが、それが付加要素として介入することで彼女たちの「スタァライト」は間違いなく以前とは異なるものとなってしまう。ななはそれを恐れているのである。

これは構造的に青春と同じである。人は青春を懐古するが、それは青春が若さ故の相対速度で瞬時に過ぎ去っていく刹那の連続だからである。ななが守ろうとしているのは、栄光と化した演劇であると同時に、それの裏面として常に思い出と化し続ける青春なのである。

演劇に閉じ込められた青春、青春に閉じ込められた演劇、演劇の再演が青春の再来を意味する時、『ロンドロンドロンド』の上映もまた再演の形を取って現れる。

『ロンドロンドロンド』において、ななが冒頭からループを前提として登場することが、本作の再演的性格を物語っている。アニメは言うまでもなく「複製芸術」(ベンヤミン)の一種であり、そこに一瞬一瞬にしか顕在化することのない限定的なニュアンス(もっと言えばアウラ)は存在しない。よってアニメの放映において不確実性は全く排除されている。

この不確実性を劇そのものの進化として描いたのが「スタァライト」である。華恋とひかりという2つの不確実が介在することにより、「スタァライト」の悲劇はハッピーエンドとして救済される。

「レヴュー」の「オーディション」を勝ち抜いた舞台少女は、「トップスタァ」として望む舞台を享受することが可能となるが、それに対して、負けた舞台少女は舞台に対する喜びや悲しみといった感情・情熱をすべて失ってしまう。ななはみんなを守りたかったと真矢に告白するが、これはループよって自分が「トップスタァ」の座に居続けることで、上述した青春の思い出の堅持だけでなく、自分以外の少女が勝ち抜くことによる他の少女たちの感情喪失を防ぐ意図もあったことを意味する。

また、彼女が毎回のループで優勝できた背景には、彼女自身の素の実力だけでなく、度重なる「オーディション」の経験から他の舞台少女たちの行動パターンや戦闘スタイルを熟知していたことがあるだろう。

以上の2つの理由を解消するためには、運命を真っ直ぐに信じ抜こうとする華恋による「物語の救済」と、事前データのないひかりによる「物理的な勝利」が必要とされたのだ。(次戦で華恋がななに勝てたのは、華恋の実力というよりもななの精神的動揺に起因するように思える。)

さらに重要なのは、ひかりは舞台への情熱を失っている点である。これに対応するように、ななは舞台の失敗・破綻を恐れている。ひかりは舞台に立つことに伴うありとあらゆる快楽や苦悩を根こそぎ奪われているため、舞台を上演することに伴う苦悩に苛まれているななに対する有力な対抗勢力となり得る。好きの反対は無関心、とはよく言ったものだが、この観点から「無関心VS恐怖(嫌悪)」の構造とでも言えるものがそこにはある。舞台に立つ喜びを享受する華恋ではなく、舞台へ何も関心を抱いていないひかりが最初にななに対峙することがここでは決定的に重要となる。私の失ってしまった感情をあなたはこんな形でしか消費できないのか?、という憤りにも似た問いかけが肉体的な戦闘を通して伝達される。そこで自分の感情に改めて対峙するからこそ、ななは後の「レヴュー」で華恋の正の感情の奔流に屈することになるのだ。

私は先に、再演は不確実性を伴うと言ったが、『ロンドロンドロンド』における不確実性とは、言うまでもなくラストの展開である。テレビアニメと同様に、戯曲「スタァライト」は新たに救済の物語として書き変えられ、大団円を迎える。かのように見えて、実はその大団円によって新たな物語が創出されてしまい、その新たな物語の終幕は「舞台少女の死」をもって行われる、という衝撃的な事実が明かされ、今作は幕を閉じる。そして同時に完全新作の続編映画の情報も明かされ(これは以前から公式発表がありはしたが)、本作が単なる総集編ではなく、明確な意図を持った続編への架け橋であることを(それはあたかもロンドン橋のように徐々に、だが劇的に繋がれる橋である)、我々観客は理解する。このラストの展開は、そのまま「スタァライト」のラスト改変とパラレルに関係し合い、一種のメタ構造を形作る。この時、テレビアニメをすでに視聴している我々は、ななが体験したような再演という演劇的な経験を、アニメにおいて感じ取るのだ。

 

改めて、『少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンドロンドロンド』、現在絶賛公開中である。テレビアニメを知っているからこそ体験できる物語的転回を、是非とも味わってもらいたい。

俺ガイル完第1話最速レビュー

どうも、ワンダです。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』の放送が開始した。

私はこの作品の以前からのファンで、原作もすでに最終巻まで読破しており、今回のアニメ版完結編を待望していた。何しろ、私が俺ガイルに触れたのはアニメがきっかけであり、アニメで最後まで描いてくれないことには私の中の俺ガイルは完結しないのだ。江口拓也早見沙織東山奈央があの3人を演じてくれないことには終わりようがないのだ。終わることに一抹の寂しさはあれど、終わらないと始まらず、そもそも「どのように終わりどのように始めるか」は俺ガイルとテーマの一つでもある。終わりを期待しないのはファンとして不十分な態度だ。だから私は俺ガイルが完と題してくれたことに敬意を表するし、完を見届けられることに一種の誇らしさすら感じる。

そんな思い入れの強い、否、強すぎる感すらある俺ガイルという作品についての総論は、アニメ最終回放送後にでも書こうと思っているので、今回は1話を観て感じたことをとりあえず思うままに書いていきたいと思う。

なお、がっつりネタバレを含むので、まずは本編を観てから、なんなら原作を読んでから、目を通していただきたいと思う。

 

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さて、最初から順を追ってみていく。

2期最終話の終盤から引き続く形で本編は始まる。雪ノ下の依頼をみんなで引き受ける場面だ。

ここから飛んで、夜の場面。雪景色が美しい。そして主人公比企谷八幡のモノローグ。俺たちの俺ガイルが始まったな、という気持ちになる。この抑えめな江口拓也の演技が作品全体を支える。自分たちの現状と未来を、静かに真剣に見つめようとする姿勢が伝わる。自販機に近づく八幡。ファンにはお馴染みのマッカン購入で笑顔になる。

OPに突入。やなぎなぎの新曲『芽ぐみの雨』とともに流れる映像たち。冒頭の雪景色が美しい(2回目)。3人の憂いを帯びた表情もたまらない。次々に登場するお馴染みのキャラクターたちが懐かしい。サビを飾るのは今作の中心となるボールのダンスシーンだ。これが作品への期待感を高める。部室に1人佇む雪ノ下は何を見つめているのだろうか。

 

Aパートは、原作12巻の最初から58ページまでが描かれる。セリフも一部の言い回しを除いて正確に再現されている。

八幡が買ってきなペットボトルを差し出すシーン、雪ノ下と由比ヶ浜が財布を出そうとし、それを無言で拒否する八幡、細かい芝居作りだ。言うまでもなく俺ガイルは徹底した会話劇として構成されているが、映像面の丁寧な芝居が、その会話劇を際立たせている。制作陣の熱量が感じ取れる。

八幡の冗談、雪ノ下の毒舌、由比ヶ浜のツッコミ、すべてが懐かしい。視聴者は俺ガイルの世界に戻ってきたのだと感じる。

彼らは回想する。自分たちの出会いであり、はじまりである、お菓子作りを思い出す。このシーン、1期1話の内容なので実は制作会社が違う。ブレインズ・ベースが描いた作画部分を、feel.で独自に描き直しているのだ。1期をなぜfeel.ではなくブレインズ・ベースが製作したのかは定かでないが、俺ガイルの歴史を、feel.自身の手でなぞり直そうという意図を感じる。これを大切なポイントだろう。我々は登場人物と、さらには制作陣とともに、過去を振り返るのだ。

繰り広げられる会話。平和だ。このやりとりをもう続けられないと、彼ら自身が自覚しているかのように、虚構にも似た平和なムードが醸し出される。『春擬き』のBGMが哀愁を誘う。

雪ノ下の名前の由来。母が決めたという自分の名前のルーツを、その母本人からではなく姉から聞かされた雪ノ下。これは何を意味するのか。安直な名から親が自分に無関心なことを感じ取ったのだろうか。それとも、親と繋がれない希薄な関係性を想起したのだろうか。または、それ以外の何かだろうか。

雪ノ下の話。雪ノ下自身の話。雪ノ下は何をしたいのか、どうしたいのか。昔は親の仕事をやりたかったと語る雪ノ下、しかし母がなんでも決めたせいで己で決められないと語る雪ノ下。ちゃんと考えて納得して諦める姿を2人に見届けてほしい、それが雪ノ下の依頼。由比ヶ浜は疑問を投げる。それが本当の答えなのか、と。もしかしたら違うかもと、雪ノ下は応じる。しかし、ちゃんと始めるために必要なのだと、雪ノ下は言葉を続ける。少なくとも間違いではないはずだ、と。由比ヶ浜も、それも答えだと、肯定する。正解なんてわからない。答えなんて決まらない。それでも、「間違いでないもの」を積み重ねることでしか、彼らは前に進めない。だからこそ、「間違いでないこと」を、彼らは選択していく。

陽乃のマンションに着いて、Aパートは終了する。

 

Bパートは、同100ページから150ページまでが描かれる。こちらも一部シーンのカットはあれど、セリフはほぼ正確に再現されている。

八幡が自室で起床するシーンから始まる。

机上にあるお菓子の袋を確認し、自分たちの選択を再確認する。

高校入試の面接試験に向かう妹の小町との軽口の応酬。楽しい会話だ。これも俺ガイルの魅力の一つである。

八幡は、散歩の途中で、川崎姉妹に遭遇する。

ここでも軽妙な会話が展開される。コミュ障のはずの八幡だが、川崎京華には随分慣れた様子で優しく接する。幼い時から小町の面倒を見てきたからだろう。どれだけ八幡が小町を可愛がってきたのかが、八幡の京華への態度から逆説的に際立たされる。

八幡が発した小町への「愛してる」に反応する川崎。雪ノ下と由比ヶ浜が見事な演奏を披露したあの文化祭を思い出す。そこで、八幡は川崎に屋上への行き方を尋ね、教えてくれた川崎に対して、「愛してるぜ」と軽口を叩く。この「愛してる」と小町に言うシーン、実は原作にない。小町との軽口のシーンは勿論あるが、このセリフはない。よって、ここには演出上の意図がある。それは何か。文化祭の演奏シーンは、1期最終話で描かれるのだが、八幡が相模を探している肝心のシーン、1期では材木座に電話で隠れやすそうな場所を訊くところまでしか描かれておらず、続く川崎へ尋ねるパートがカットされているのだ。今回、原作にあるこの川崎とのパートを再現したことには当然意味がある。一つは、俺ガイルの名場面を視聴者と振り返るとともに、feel.の手で俺ガイルをなぞり直すため。必然性をもって回想シーンを挟むには、登場人物に過去を思い出させるのが一番自然である。もう一つは、川崎というキャラに決着をつけるため。川崎は八幡のことを好意的に見ている。これは恋愛感情ではないのだろうが、男性として見ていることは間違いないだろう。その川崎の感情に、彼女なりの折り合いをつけさせるシーンとして、原作にはないオリジナルのセリフが挿入されたのだと思われる。

八幡と小町は家に帰る。夕食を作ったり、コーヒーを入れたり、八幡の世話をせっせと焼く小町。兄に面倒を見てもらっていた自分が、今では成長して色々とできるようになったと自慢げに言う小町。そして、小町は三つ指ついて兄にお礼をする。お世話になりました、と。嫁入り前のようだと言って初めて感情を知ったロボットのように八幡は泣き出す。そして小町は、目に薄く涙を浮かべながら、その場を立ち去る。感動的で、小町的にポイント高いシーンだ。なぜ、小町はこのように仰々しいことしたのか。それは、八幡が自分を可愛がってくれていたと知っているからだ。八幡はぼっちである。友達がいないのだ。では一般に友達と遊ぶ時間を八幡は何に費やしてきたのか。自分でできる読書やゲームもあるだろうが、小町と遊んであげていたのではないか。時に軽口を叩き合いながらも、八幡の小町への愛情は、俺ガイルという作品全体を通じて強調されてきた。それが八幡の足枷にもなっていると小町は考えたのではないだろうか。小町は知っている。八幡が前とは変わろうとしていることを、前とは変わってきていることを。雪ノ下や由比ヶ浜と出会い、触れ合うことで、八幡は確実に変わりつつあるのだ。それを小町は応援したいのではないか。今まで自分の面倒を見てくれた兄に、私はもう大丈夫です、あなたはこれから自分のことを頑張ってくださいと、言わんとしているのではないか。その意味で、これは兄離れであると同時に、八幡の妹離れでもあるのだ。だから、その寂しさを甘受して、小町は八幡の背中を押すのだ。

お兄ちゃんと八幡を可愛げに呼ぶ幼き日の小町を思い出して、八幡は寂しげに、だが同時に誇らしげに、カマクラに話しかける。ここでBパートは終了する。

EDに突入。

今度はカリカチュアされているが、また雪が降るシーンから始まる。今作の徹底して雪を描いていく姿勢が伝わる。(雪で三角関係といえば『true tears』がある。あれも大変面白い。私は個人的に雪と美少女の対応関係が大好きなのだ)

雪ノ下と由比ヶ浜の笑顔が、強い印象を与える。この先の困難な展開を想像させつつも、同時に希望を感じさせるような、そんな表情が、『ダイヤモンドの純度』の歌唱を背景に映し出されていく。感動的だ。

 

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以上が1話のあらましである。

お気づきかもしれないが、AパートとBパートの間で、原作では50ページ分ほどの開きがある。このシーン、今後のネタバレになるので深く言及することは避けるが、端的に言うと陽乃とのやりとりがある。このシーンはおそらく2話以降に持ち越されると思われる。では、なぜこのシーンを1話の段階で敢えてカットしたのか。まず、1話の段階で作品の核心に踏み込むことを避けたのだろうということ。今作は前作から5年の時間的ギャップがある。だからこそ、視聴者と前作までの流れを振り返る意味で、1話の段階でいくつかの回想シーンが挿入されたわけだが、いきなり物語の核心的な位置付けにある陽乃とのシーンを出すと、視聴者がついていけなくなる可能性がある。これは原作でもすぐに小町とのシーンを出すことで中和を狙っていたが、それをよりわかりやすくアニメでは描いたことになる。また、小町との軽妙で笑いを誘うやりとりは、俺ガイルの雰囲気を視聴者に思い出させるとともに、上述したような小町の兄離れから雪ノ下と由比ヶ浜へ物語の比重が完全にシフトしたことを示す意図があると思われる。川崎の感情の決着を描いたのも、同じような狙いだと考えられる。これから紡がれるであろう雪ノ下と由比ヶ浜(と一色いろは)との展開と決着に、我々は不可避的に姿勢を正されることになるのだ。

 

以上、内容面からの1話雑感であった。

これからの2話以降も、同じように各話の感想を書いていきたいと思っている。お付き合いいただければ幸いだ。

 

追加:

2話以降のレビューが実は全然書けてません。よって放送終了後に総論としてまとめる形にしたいと思います。

 

雑記

どうも、ワンダです。

 

最近観たが特に感想を持たなかったアニメを列挙します。これからもブログ1本分にならない感想はこんな感じで書き連ねていきます。(多分)

 

『色づく世界の明日から』

設定がファンタジックだけどやってることは普通の青春アニメ。青春物に定評のあるPAだけあって映像・物語ともに綺麗で良く出来てる。普通に楽しめた。でも良く出来てるなぁ以上の感想を抱かなかった。青春は人が時間の有限性を確認する意味で一度しか訪れない体験だからこそ出会いの重要性や過去への後悔が際立つわけで、そのためタイムトラベル物と相性がいいのだが、自閉的な少女が心を開く訓練の場として家族が他者としての役割を担うというギミックは面白い。ヒロインが白髪(銀髪?)なのも結構好きだった、可愛い、石原夏織最高。8点。

 

正解するカド

設定を少し捻っただけでやってることは平凡なSFバトル。SF設定も実はそんなに目新しくなかったり。政治の描写も稚拙。頭良さそうな交渉をテーマにしてたのに最後ただの力押しの殴り合いになって爆笑。人類の進歩云々ってメッセージ性も安直で退屈。3点。

 

ハナヤマタ

綺麗なアニメーション。予定調和ながらも単なる萌えアニメに終わらないストーリー性は魅力的だった。踊りを題材にしてるだけあってキャラはよく動くし、歌も可愛いし、監督的には名作よりもいのプロトタイプとして観ることもできるし、いろんな意味で綺麗。でも綺麗すぎて逆に少し萎えてしまった。総じてパンチが弱い。もう少しドロドロしてた方が好みです。(完全主観的感想。)8点

 

ハンドシェイカー

CGで描かれる世界観やバトルシーンなど、映像はいい感じに狂ってて好みだった。特徴的な音楽も相まって雰囲気が出てる。OxTの主題歌も良き。(野崎くん以来オーイシにハマってしまっている。)でもバトルロイヤルなのにキャラにみんな個性がなくて魅力に欠けるのは残念。キャラ本体の不足を声優の演技の上手さで誤魔化してる感じがした。特に諸星すみれ、彼女はやっぱり上手いですね。幸薄そうな少女役やらせたらもう抜群の水準を誇っている。総じて形式的には荒削りだけどその荒削りな感じが妙な味にもなってるアニメだった。7点

 

キズナイーバー

みんな大好き岡田麿里。私も先のブログで取り上げた。最近色々と岡田作品を観てるけど、それはまた別の話。別の機会にまとめて書きたいと思う。さて、trigger制作なだけあって、本作もその独特な作画が魅力的であり、内容面でも終盤に向けて盛り上がってカタルシスのある作品だった。岡田麿里作品は一般にドロドロしてると言われるが、これはそのドロドロさを残しつつも熱い展開の大団円になっていたと思う。キャラクターたちが初見で集合し、ぶつかり合って離散するも、再度仲間のために集合する、という流れも巧みだった。カップリングもそれぞれのキャラで成立するから、特定のキャラが取り残される不快感もない。その点でも後味の悪さは特にない。しかし、trigger制作としても、岡田麿里脚本としても、全体的に凡庸さが目立つ。この作品だけの持ち味があまり感じられない。傷を共有して絆を結ぶって言葉遊びも嫌いじゃない。7点

 

『グランベルム』

普通。脚本も演出も普通。量産型凡作アニメの典型。全体的にありきたり、キャラも設定も既視感満載。キャラの声がデカすぎて何言ってるのかよくわからなかった。そもそもそれが不快だった。現代でロボット物アニメやるにはどうしても工夫が必要だけれど、その工夫も上手くない。魔法要素とロボット要素の入れ込み方が中途半端で全体としての一体感がない。でも石見舞菜香が好きなので石見舞菜香の百合を見れたのはとても楽しかった。石見舞菜香さん最高です。5点

 

以上、特にコメントないなりにコメントしてみました。

 

言葉によって荒野を歩む少女たちの絵姿

どうも、ワンダです。

 

アニメに少しでも親しんでる人ならば、誰もが岡田麿里の名前を聞いたことがあるだろう。

その作品はネット上で常に賛否両論巻き起こすが、作品の質・量・知名度・ヒット率など、現代日本アニメ界を代表する脚本家であることは間違いない。

私個人としては、総じてアンビバレントな意見を持っている。

たとえば、彼女の代表作『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』や『心が叫びたがってるんだ。』が嫌いだったりする。

しかし好きな作品もある。原作ありなら『とらドラ!』や『放浪息子』、オリジナルなら『true tears』や『花咲くいろは』(特に劇場版の『HOME SWEET HOME』これは傑作!)などは面白いと思う。

このように愛憎入り混じった岡田作品の中で、今回語りたいのは、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』である。

理由は先日観たからだ(いつもと同じ)。

先に言っておくと、私は本作を大変好意的に捉えている。個人的に満足のいく、面白い作品だった。それは、岡田麿里の持つある種の「気持ち悪さ」が物語内部で丁寧に昇華され、物語の一部として成立していたからであり、かつ群像劇として面白かったからだ。(私は群像劇というジャンルが大好物なのだ。)

以下、岡田麿里の過去作にも適宜触れつつ、『荒ぶる』の魅力を説明していきたい。

 

岡田麿里は「下ネタ」を好む。一見不必要に思えるような下ネタを作中に入れ込む。(ここでいう下ネタは、必ずしも下品であるとか笑いを誘発するとかいうことを意味しないが、便宜上下ネタと表記する。)

『あの花』の「あなる」、『ここさけ』のラブホテル、などなど、枚挙に暇がない。

この点で、高校の女子文芸部員たちの「性と生」を扱った本作は、必然的に岡田麿里的下ネタが詰め込まれている。

岡田が下ネタを頻繁に用いるのは、彼女の本拠地が青春ドラマであることと無関係ではない。岡田の作品に限らず、青春ドラマは若者の成長譚が基調となるが、彼女はキャラクターが性に触れることを、子供から大人への変化の証もしくは兆し、あるいは青少年に必須の何か、として描いている。

そのような性に対する岡田独特の問題意識が物語として直接的に立ち現れたのが、この『荒ぶる季節の乙女どもよ。』なのだ。

そのため、従来の岡田作品では退屈もしくは不要に思えた下ネタが、今作では作品を司る不可欠の構成要素として存在感を発揮する。セックスを「エスイーバツ」と隠語的に表現するところなどは、岡田の下ネタ感覚の面目躍如といったところだろう。

下ネタは岡田の持ち味であると同時に足枷であると私は考える。だからこそ、その持ち味が構造的に昇華されている事実は、視聴に対するハードルを下げ、視聴者にとっかかりやすさを与える効果がある。

 

繰り返しになるが、本作は高校の文芸部に所属する女子高生5人が、性とは何か、セックスとは何か、恋愛とは何か、男とは、また女とは何か、を考えながら成長する物語である。

女子高生を中心に据えた物語であるが、必ずしも視点が一方向的なわけではない。本作は群像劇である。群像劇とは、登場人物の種々異なる視点が複層的に主張を重ね合わせていく物語である。それは換言すれば、特定のキャラの主観が優越しない、主観と客観の調和と融合が成立した世界である。

主人公5人には、それぞれカップリングの対象となる男性キャラが用意される。(ED映像の冒頭に映る5人がそれである。)

この5人の男性キャラは、物語が展開するにつれてある者は恋人に、ある者はヒールに、ある者は別れの対象に、ある者は良き理解者になっていくのだが、彼らはただ女子5人の魅力を引き立たせるだけの道化ではない。いわば共感できるキャラクターとなっている。

当然だが、男子と女子の性事情は違う。そもそも肉体の構造が違うのだから、肉体的な欲求に根差す性事情が違ってくる。

これは、主人公の一人である和紗が、幼なじみの泉がAVを観ながら手淫を行うシーンを目撃し、さらには「性的に興奮しない」と告げられてショックを受ける描写に顕著に現れている。

泉は性的な欲望に従事する自分に和紗が嫌悪感を示したと思い、それを払拭すべく和紗を性の対象として見做していないと言ったのだが、和紗からすれば性的欲望と恋愛感情は密接に結びついているものであり、性的関心がないと告げられることが自身を恋愛対象として見ていないと告げられることとイコールで繋がってしまったのだ。性を娯楽として消費しやすい立場にあり、従って性的欲求と恋愛感情を分離して考えがちな男子と性が自分の身体的変化と不可避に結びつくことで、性的欲求と恋愛感情を一致させる傾向にある女子との意識の差をここからは感じ取ることができる。

加えて、このディスコミュニケーションの背景には、女子は性欲を抱いていない(少なくとも男子ほどは抱いていない、興味を持っていない)といった男性視点の旧時代の封建的発想がある。女子の性欲を否定的に見る風潮に対し、実際は女子も男子並みかそれ以上に性について関心を持っているわけで、それが本作の主題なのだが、本作の巧妙な点は男子側の視点を導入することで男性視聴者にも理解しやすい物語を提供していることなのだ。純粋に女子側の視点だけを描いていたのでは、男性視聴者からは自分には関係のない・理解できない「キワモノ作品」と見做される可能性があるが、男子側の視点を導入することでその可能性を封殺しているのだ。このことから私は、男女双方の視点から性について考えようとする岡田の意思を感じる。

他にも、百々子が予備校で出会った悟に付き纏われるシーンだが、これも男女のギャップを表現している。庇護者としての自身をアピールしようとする男子と単なる被保護者でいることを拒否する女子との意識の差が顕在化するわけだが、これも男子が女子に対して抱く時代錯誤的発想が背景にある。

だからこそ、り香に対して「かわいい」を、誤字を重ねながらも、書き連ねて想いを率直に伝えた駿の真摯な態度が逆説的に際立つ。

巧みなキャラクター造形である。

しかし本作で描かれるのは男女の異性愛関係だけではない。

百々子は男子に対して潔癖であり、むしろ女子の方を可愛くて綺麗だと考える。これを恋愛と呼べるのかは議論が分かれそうだが、世界が終わるとしても女子とのセックスを選ぶと言い切る彼女は、男子よりも女子に好意を抱いてることに間違いない。性欲や愛情は、異性にだけ向けられるものではないのだ。美しい菅原氏に惹かれる百々子の姿にもまた、ステレオタイプを拒否する多様性を見てとることができる。

このような多様な視点の配置によってこそ、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は群像劇として成立しているのだ。

 

とらドラ!』のテーマは、「この世界の誰一人、見たことのないもの」を見つけること、であった。人はそれを「恋」や「愛」といった言葉で表現するのかもしれないが、しかし、そのような誰もが用いる、ある種陳腐な借り物の言葉で表現できないものを、登場人物たちは見出そうとする。

『荒ぶる季節の乙女どもよ。』のテーマも似ている。文芸部員である彼らは、言葉に敏感である。自分と相手とその関係を期待する言葉を彼らは探しているのだ。

そも、文学とは何故に生まれたのか。

人の感情を表す言葉は極めて多様である。私たちが日々用いる日本語に限っても、楽しい、嬉しい、悲しい、寂しい、辛い、痛い、苦しい、など様々な語彙があるが、果たしてこれらの言葉が真に我々の感情を表現できると、していると言えるのだろうか?

個別性と多様性の中では、辞書的な語彙からの逸脱が必然的に起こる。その逸脱を考え、捉えることが文学の大切な役割の一つではないだろうか。語り得ないものを語るものが文学なのだ。

彼女たちは小説を通して自分たちの言葉を探す。それは画一的で辞書的な言葉ではなく、彼女たちの実際に寄り添い支える言葉だ。

物語終盤、自分たちの純潔を白紙に喩える彼女たちは、それが汚れていくのではなく、様々な色に染め上げられていくとイメージし、思いの丈をまさに荒ぶって書き上げていく。思春期という荒ぶる季節を生きる彼女たちは、その荒波に時に翻弄されながらも、純潔を失うことを恐れない。その喪失は成長に不可欠であり、成長の過程で新たな言葉を彼女たちは紡いでいく。自分たちの言葉で白紙を埋めていくのだ。言葉とは不確実なものである。どれだけ言葉を尽くしても、その意図が伝わる保証など存在しない。(この点に関しては、私は岡田麿里がややオプティミストであると感じるが、それが今作では基本的に良い方向に作用していたように思し、また控えめであったとも思う。)

しかし言わないと始まらないこともまた事実なのだ。性行為は双方の合意に基づくものだしまたそうあるべきだが、その合意はまず言葉によってなされるものである。彼女たちは、これからも不確実な言葉の壁にぶつかり続けるだろう。しかし、敢えて私は、彼女たちの進路は明るいと思いたいのだ。それは、今作を最後まで観た人になら、分かってもらえると信じている。

 

荒ぶる季節の乙女どもよ。 9点

 

補足

これだけ褒めておいて10点でない理由は、1.キャラクター造形が巧みとはいえやや画一的な面も目立つこと、2.ラストがやや駆け足であったこと、などが主な理由である。(これらは岡田作品全般に共通する欠点でもあるのだが。)